02


ざぁっと吹いた冷たい風が薄紅色の花弁を散らす。
肌を刺す冷えた空気に小刻みに肩が震え、心細げな声がその場に落ちる。

『夜…、何処に居るの…?』

ここは酷く寒い。寒くて暗い。
唯一変わらず聳え立つ垂れ桜の下で、昼は冷えきった己の体を抱き締めた。

『夜っ……』

常に共にあった筈のぬくもりがまったく感じられない。夜の気配が、心が、どこにもない。
垂れ桜の下で蹲った昼の耳に、不意にざわめきが届く。

『な…に?』

冷えきっていた体がじわじわと熱を持ち始め、それとは反対に昼の意識は微睡むように遠退く。

ふるりと微かに瞼が震え、意識を手放した筈の昼は不思議なことに瞼を押し上げていた。
ぼぅっと開けた視界に見知らぬ天井が映る。

「…っ…此処、は…?」

何だか身体が重くてだるい。
横になったまま視線を巡らせば、やはり見覚えの無い部屋。入り口に掛けられた御簾や几帳。屏風に調度品。部屋の隅には紐で綴じられた書物と巻物が大量に積み重ねられている。昼の身体に掛けられた袿といい、ここには随分と古風な物が多い。

身体に掛けられていた袿を落とし、何とか上体を起こした昼は部屋の入り口付近に何かがいることに気付く。けれど、それは姿を確認する前に消えてしまい、代わりに昼の耳は、とたとたと人の近付いてくる音を拾った。

「…あ、本当だ、起きてる」

上げられた御簾をくぐって室内へ入ってきた少年に昼は戸惑う。

「えっと……だれ?」

「あぁ、ごめん。俺、安倍 昌浩。きみ、この近くの辻で倒れてたんだ。身体とか大丈夫?」

「あ…、うん」

たっぷりと水の入った桶を持って入ってきた事から昌浩と名乗った彼が自分の看病をしてくれていたんだろうと、昼は警戒を薄める。

「こら昌浩!まだどこのどいつかも分からんのだぞ。不用意に名を名乗るな!」

「そうだ。きみ名前は?」

昌浩の傍らにいる兎みたいな動物が気にならないわけでも無かったが、常日頃妖怪のいる屋敷で暮らしている昼はその動物も妖か何かだろうと思ってあえて聞かなかった。

「僕は奴良 リクオ」

「リクオ?妙な名だなぁ…ふぎゃっ!何をする昌浩!」

然り気無い仕草で、床に手を付くようにして物の怪を押さえた昌浩は物の怪の抗議をさらりと無視して昼と話を続ける。

「じゃぁ、リクオくん。どうしてこんな真夜中にあんなとこにいたの?」

「あの…、僕…どこにいましたか?」

「えっ、もしかして覚えてない?」

ちろっと物の怪の視線が昼に向けられ、昌浩も驚いたように昼を見返す。その先で、不安そうな表情を浮かべながら昼は一つ頷いた。

「なんで僕がここにいるのかも分からないんです」

「…えっとそれじゃぁ、非常に言いにくいんだけど…どうしてその姿になってるかも分からない?」

言われた言葉の意味が分からず昼はきょとんとする。
その姿と言われて首を傾げながら昼は己の身体に視線を落とした。

…身体が重くてだるい以外、これといって特に変わりはない。姿だって昼の、人間のままだ。

「気付いてないのか?」

「たぶん」

物の怪は昼が自分の姿を指摘しないことから見えていないと判断して、堂々と昌浩の肩に乗る。
一方の昌浩も同様にとり、掛けられた物の怪の声に小声で返してから、意味を理解していない昼に分かりやすく説明し始めた。

「リクオくんの体は今、魂魄(こんぱく)だけになってるんだ。体、本来魂が入っている器をどこかに置いてきてしまってる」

体と魂魄を切り離す離魂術。昌浩の知る限りその術を使えるのは祖父である晴明だけだと思っていたが。

(だから夜の存在を感じられないのか。どうしてか僕が体から離れてしまったから。でも何で…)

「そしてその状態はとっても危険なんだ。魂魄の状態で傷を負えば直接魂に影響が出る。もし傷を負わなくてもずっとその状態でいるのは良くない。だから、早く体を捜さないと」

「………」

「とは言え、俺占いは苦手だからなぁ」

昌浩の話を聞いて黙り込んでしまった昼を横目に物の怪は昌浩の肩をぽんぽんと叩く。

「まっ、緊急事態だし晴明に手伝ってもらったらどうだぁ?」

「………」

物の怪の言葉に今度は昌浩が黙り込む番だった。







考え事をしていた昼は耳に飛び込んできた名にぎくりと顔を強張らせる。

…晴明。そしてこの少年の名は何と言った?
安倍と言わなかっただろうか。
奴良組最大の敵、安倍 晴明。

「〜〜っ、しょうがない。ものすっごく嫌だけど、嫌だけど…人命には代えられないし」

「そうそ。それにコイツが起きたら連れて来いって晴明に言われてたろ」

ひょんと白い尾を振り、昌浩の肩から飛び下りた物の怪が先導するように歩き出す。
不機嫌そうな表情を浮かべていた昌浩は一呼吸置いてから昼に話しかけた。

「ということで、今から俺のじい様、安倍 晴明っていうんだけど知ってるかな?そのじい様のとこ行って体がどこにあるのか占ってもらおう。じい様そういうの得意だし、安心して良いと思う」

にこっと昼を安心させるように目の前で笑った昌浩からは敵意とかそういったものはまったく感じられない。しかし、

「う…ん。ありがと」

昼の薄れていた警戒心を呼び起こすには十分だった。
ぎこちなく頷いた昼に昌浩は緊張しているんだろうと勘違いをして、茵から出ようとした昼の体を支える。

「大丈夫?辛かったら俺の肩貸すけど」

「ん、大丈夫」

ゆっくりとだるい体を持ち上げ、昼は一人で立つ。じゃぁ付いて来てと、昼を気遣いながら前を歩き出した昌浩の背を見つめ、昼は重い足を動かした。

昌浩に案内され辿り着いた部屋の中に複数の気配を感じる。
いざとなったら逃げるしかない。けれど、果たして逃げ切れるだろうかと否が応でも昼の緊張が高まる。
どくどくと早鐘を打つ心臓。昼は着物の袷をぎゅっと握り締めた。

「じい様、昌浩です。失礼します」

捲り上げられた御簾をくぐり昌浩が部屋へと入って行く。その後を、覚悟を決めた昼が続いた。

「おぉ、来たか。そちらが…」

先に来ていた物の怪の隣に昌浩は慣れた様子で座り、昼は一歩足を踏み出した状態で目を見開く。

「っ、違う……」

自分に向けられた酷く穏やかな眼差し。掛けられた声も顔も想像していたどれとも、対峙した時のものともまったく違う安倍 晴明がそこにはいた。

「何だぁ?」

「リクオくん?どうしたの?」

好好爺然とした晴明の顔を見つめ、呆然と立ち尽くす昼に物の怪と昌浩が首を傾げる。
それとは別に晴明の背後から突き刺さるような視線を感じて、昼は混乱したままじりりと後ずさった。

「違う…、どうして…」

「はて…違うとは何のことかの?とりあえず昌浩の隣にでも座っていただけると助かるのじゃが」

視線を合わせた晴明は穏やかな表情を崩さぬまま、部屋の入口で立ち尽くした昼にそう声をかけた。

「………っ」

どうしたら良いのか分からず昼は戸惑う。胸元を掴んでいた拳を震わせまた一歩、昼は後ろへと後ずさる。怯えたように瞳を揺らした昼に昌浩が立ち上がった。

「大丈夫だよ。じい様はたぬきだけどさすがにとって喰ったりはしないし。それに不安かも知れないけど俺がいるから。ね?」

ほわりと笑う昌浩に、真っ直ぐなその瞳に何故か昼の心は落ち着いていく。昌浩には何か不思議な力があるのだろうか。

「……う、ん」

小さく頷いた昼に昌浩は笑顔を見せ、自分の隣に座るよう促した。
そして、昼と昌浩、物の怪は晴明と向き合う。
始めは昌浩が気を遣ってか、先程昼がした話を昌浩が晴明に伝えてくれた。

「ふむ。それはまた不可解な…。原因が分からぬと」

「そうなんです。それでじい様にリクオくんの体を捜して貰えないかと」

「確かにのぅ。ずっとその姿でいるのはちと危ないのぅ」

正座した昼を上から下まで眺めやった晴明はちら、と昌浩の横で大人しく座っている物の怪に視線をやる。その視線の意味を正確に受けとった物の怪は首を横に振って答えた。

「どうやらそいつに俺達の姿は見えてない様だ。部屋にいた六合に気付いた様子もない」

「そうか。相分かった。リクオ殿の体、この晴明が捜してみましょう。ただ…気になるのはその欠けた魂の方ですが…」

「欠けた魂…?」

とくりと昼の鼓動が跳ねる。

「いや、先に体を捜しましょう。それまでリクオ殿には魂魄を守る為に体の代わりとなる形代に入って頂くことになりますが、良いですかな?」

「…はい」

「では少し準備がありますので、昌浩と一緒に部屋でお待ち下さい。昌浩」

「じゃ、行こうか」

昌浩に促されて昼も席を立つ。
此処で分かったことは、安倍 晴明が昼の知る晴明ではないこと。
自分が今魂魄だけの存在で、その上魂の一部が欠けているということ。
そして…昌浩の傍らにいる物の怪や晴明の背後に控えている人形を昼が見えていないと彼らが思っているということだけだった。

昌浩達が退出した後で、晴明の背後で隠形していた青い神将、十二神将が一人、青龍が顕現する。
昼へと向けていた敵意にも近い眼差しで主を見た。

「晴明。何故あんな素性も知れぬ餓鬼を邸に入れた?わざわざ厄介ごとなど。それにアレは何か隠しているぞ」

「分かっておるよ。隠し事があることも。昌浩は気付いておらぬようじゃが紅蓮が気付いておる。そう心配せずとも大丈夫じゃ」

「誰が子供と騰蛇の心配なぞするものか。貴様のことだ晴明」

「なんじゃつまらんのぅ。…だが、昌浩がリクオ殿と遭遇したのも何かの縁。放ってはおけんじゃろ」

ほけほけとのたまう晴明に青龍は小さく舌打ちする。

「勝手にしろ。俺は知らんからな」

そう言い捨て青龍は隠形してしまった。



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